時の過ぎ行くままに

あの世とこの世の狭間でこれから真実の扉が開かれる

招待客1万人の口封じはムリと察知した安倍政権の電光石火の中止報道

身びいきし過ぎた安倍政権のおごり

 

 

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小沢一郎(事務所)@ozawa_jimusho
午前8:14 · 2019年11月16日
https://twitter.com/ozawa_jimusho/status/1195480144846020608?s=20
そもそも新宿御苑はアルコール禁止である。花見の時期は厳重な持ち物検査もされる。入場料も最近2.5倍に。なのに総理の後援会850人は税金を使ってただで樽酒やらで毎年花見を楽しんでいる。明らかに公平性を欠く。結局は身びいきこそ安倍政権の本質。絶対に総理になってはいけない、してはいけない人。https://t.co/ITwSuK7jKH?amp=1 (関連記事)
 
 
 

安倍首相、逃げ切り躍起 桜を見る会、異例の20分超説明

 

                                                                                               JIJI.COMより転載 

安倍晋三首相は15日、「桜を見る会」をめぐる問題について昼と夜の計2回、記者団に説明する異例の対応を見せた。2回目は20分以上を費やしたほどで、自ら疑惑を払拭(ふっしょく)する姿勢を示し、厳しく迫る野党の追及を振り切ろうと躍起だ。

安倍首相発言要旨 桜を見る会

 「さまざまな報道があったので事務所から詳細について報告を受けた」。15日夜、首相官邸の執務室を出て記者団の前に現れた首相はこう切り出すと、浮上している疑問点に一つ一つ答えた。記者団の問い掛けに答えず立ち去ることの多い首相の丁寧な対応には危機感がにじむ。
 関係者によると、菅義偉官房長官ら官邸幹部は桜を見る会の中止を決めた13日以降も、この問題への対応を協議してきた。特に重視したのは、首相の後援会が桜を見る会の前夜に地元支持者を招いて催した夕食会だ。野党が公職選挙法政治資金規正法に抵触する疑いを指摘しており、今後の火種になりかねないと判断したためだ。
 官邸幹部は夕食会の会場になったホテルにパーティー費用やメニューなどを問い合わせ、弁護士にも相談。首相はこうした事前準備を踏まえ、万全の態勢で「即席記者会見」に臨んだ。
 自民党幹部は「しっかり説明した。低俗な話はもう終わりだ」と語り、幕引きを急ぐ姿勢を示した。与党は、野党側が求めている衆参両院での予算委員会集中審議の開催に応じない構えだ。
 首相は記者団に「国会でお決めになれば、政府として説明を果たすのは当然」と強調したが、これを伝え聞いた別の自民党幹部は「国会は決めない」と明言した。

 
 

招待客1万人の口を封じることはムリ

 
 
                        日経ビジネスより転載
全7050文字

 今回は、「桜を見る会」の話をするつもりでいる。

 このあまりにもベタで生煮えな話題を、あえていま騒動の渦中にあるタイミングでまな板に載せることにした理由は、私自身が「桜を見る会」まわりの問題を重視しているからというよりは、いまのうちに取り上げておかないと、来週の今頃にはすっかり風化しているだろうと考えたからだ。

 桜は満開から3日後には早くも散り始める。この種の話題は、風化が早い。

 そう判断したからこそ、官邸は中止の決断を急いだのだろう。

 「なあに、さっさとテントを畳んで撤収すれば、じきにいつまでも跡地で騒いでいる連中の方が間抜けに見えるようになる」

 という判断だ。

 そして、その彼らの判断は、おそらく間違っていない。

 メディアは3日で飽きるだろうし、野党が粘ったところで国民の関心はどうせ1週間ももたない。われわれは匙を投げるだろう。

 「やめるって言ってるんだからもういいじゃないか」

 と、そういう空気が漂って、それでじきに沙汰やみになる。

 だから、今のうちに騒いでおく。

 というよりも、騒いだ証拠を文字として残しておこうと考えている。

 いずれ、ここに書いたことが役に立つ日がやってくるかもしれないからだ。

 やってこないのだとしたら、それはそれで仕方がない。自分たちの国をそういう国にしてしまった責任を噛みしめつつ、余生をやり過ごすことにしよう。

 桜が1週間で散るのは、われら日本人が飽きっぽいからだ。

 それほど、この国で暮らす人々の思考は持久力を欠いている。

 というよりも、たったの1週間で跡形もなく消えてなくなるからこそ、桜は、日本人にこれほど愛されている、と、この話題は、そういう方向で考えるべきタームであるのかもしれない。

 とにかく、この種のニュースは、熱のさめないうちに調理するに限る。

 味は問題ではない。舌なりノドなりに火傷を負わすことができれば、とりあえずは上出来だ。

 総理大臣主催の「桜を見る会」が、年を追って麗々しいイベントに変質しつつあるという話を聞かせてくれたのは、昨年の春、さる知り合いの葬儀の折に久しぶりに会った年配の編集者だった。

 なるほど、と、感心しながら耳を傾けた。誰なにがしは数年前からの常連で、今年は誰と誰が新たなメンバーとして呼ばれているとか、総理と同じフレームに写った写真をしきりに公開しているのが、おもにどの方面の人間であるのだとかいった、彼の分析は、詳細かつ的確だった。

 「いや。恐れ入りました。どうしてまた総理の花見会なんかに詳しいんですか?」
 「相変わらず痛いところを突いてくるねえ。要するに私は、昼間っからバカなワイドショーを見てる役立たずの年寄りになったということです。なさけない話です」

 などと笑い合いながら、話題は毎度おなじみの出版不況の行く末に落ち着いていったわけなのだが、それはまた別の話だ。

 

 とにかく、彼がその時に明言していたのは、「桜を見る会」をエサに各界の著名人に渡りをつけて支持層の拡大を画策している官邸と、宴の会場で人脈形成と売名をたくらむ芸能人と、花見取材でぬかりなくVTRの尺を稼ぎつつ、画面に登場する各界のセレブの無料晴れ着映像を、近未来のスキャンダル発覚時に再生するための資料として蓄積しにかかっているワイドショーのスタッフは、みんな「同じ穴のムジナ」だということだった。

 「とすると、そんな花見の映像を見せられている視聴者は、いいツラの皮ということになりますね」

 「そうだね。まあ、穴の外のネズミってとこかな」

 などと、知人の葬儀の席で不謹慎なバカ話に興じている人間たちの品性の問題はおくとして、私個人は、その時点では、「桜を見る会」が特段に問題のあるイベントだとは考えていなかった。正直なところを言えば「桜を見る会」のニュースを伝えるテレビメディアのなんともうれしそうなトーンには毎度のことながら不快感を抱いていたのだが、その不快感については、自分自身の偏狭さないしはケツメドの小ささに由来する感情なのであろうと考えて、あえて表に出すことを自重していた。

 仮に、あの宴会が、文字通りの政権のサクラを含んだ「Win-Win」の人々による「共存共栄」の「内輪褒め」の「総決起集会」であったのだとしても、宴会はそもそもが偏ったメンバーによる自己完結した営みだ。開かれているように見えて、その実、外に向かっては頑ななまでに閉ざされている利己的な結界に過ぎない。仮に、公平で公正でポリティカリーにコレクトな宴会があったのだとして、そんないけ好かない会合がいったい誰を慰安というのだろうか。

 「桜を見る会」を問題視していなかったのは、私だけではない。同じ穴の中で仕事をしているメディア業界人も同様で、彼らは、この何年もの間、問題視どころか、宴の盛況をことほぎつつ、日本の国に桜が咲くことのうれしさを宣べ伝えるコンテンツの制作に専念していた。

 それが、招待客の選定基準と運営資金の拡大にスポットライトが当てられてみると、めでたかったはずの宴会の話が、あらまあびっくり、いきなり政治問題化している。

 なんとも滑稽な景色ではある。

 とはいえ、言われてみればたしかに宴会への参加資格は、いつの間にやら利権化していたわけだし、ということは、招待客の選定基準と選定権のあり場所次第では、この宴会をめぐるあれこれは、そのまま、政治的権益の分配を含んだなまぐさい話題になる。

 さらに、報道されている通りに、招待客の中に政治家の後援会関係者が数百人単位でまぎれこんでいるということになれば、宴会での飲食や記念品の受け渡しは、そのまま選挙民に向けた「饗応」の色彩を帯びる。処理の仕方次第では、公職選挙法なり政治資金規正法なりに抵触するかもしれない。

 なるほど。目からウロコが落ちるとはこのことだ

 私は、こういった問題点にまるで気づいていなかった。

 

われわれは、共産党の議員さんがあらためて指摘するまで、「桜を見る会」の問題をまるっきり看過していた。この点は、深く反省せねばならない。 もっとも、問題点を見過ごしていたのは、宴会を主催していた人々や無邪気に参加していた面々にしても同じことで、なればこそ彼らは、今回の事態に当たって大いに脇の甘さを露呈している。具体的には、後援会の名前を堂々と掲げた観光バスを連ねて会場に堂々と参集し、また、少なからぬ数の政治家が、当日の会場で撮影した芸能人や支持者との記念写真を無警戒にブログやSNSにアップしていた。

 彼らはバレることを恐れていなかった。

 というのも、自分たちがバレて困ることをしているという自覚すら欠いていたからだ。

 このことは特筆大書しておきたい。

 われわれの国では、政治家が自分の支持者を饗応するに当たって税金を使うことが、さして問題視されていない。それどころか、その種の力こそが「政治力」であると考える人たちが、この国を動かしているのかもしれない。

 だとすると、われわれの国がふつうの民主主義国として再出発する未来は果てしなく遠いのだろう。

 じっさい、後援会の関係者を自身の裁量で招待者名簿に書き加えた政治家も、その名簿を丸呑みで承認した官僚も、後援会の窓口を通じて宴会への参加を申し込んだ政治家の支持者も、大量の「素人」を含んだ当日の新宿御苑の映像を「セレブたちの宴」として全国に向けて配信していたメディアの人間たちも、誰一人として、あの宴会の怪しさとうさんくささに気づいていなかった。

 つまり、わたくしどもふつうの日本国民は、どうやらああいうこと(表向きは「各界の功労者」を招待することになっている宴会が、与党政治家の後援会の観光ツアー先になっていたり、政府の名において主催されるイベントへ参加する権利の分配権を特定の政党が独占したりしていることなどなど)を「いけないこと」「アンフェアな行為」としてとらえる感受性を、天然自然の天性として備えていないのだ。

 わたしたちは、どうやら、特権を帯びた人間がその特権をかさにえこひいきを発動することや、特定の政治家を支持する人間が見返りを求めることを「ごく自然な」「人として当然の」態度だと思っている。それどころか、われわれは、莫大な資産を持つ人間が自分の周囲にいる人間に金品をばらまくことや、人事権を握った人間が、自分の好みの人間が有利になるべく取り計らうことを「器の大きさ」ないしは「度量」と見なす感覚さえ抱いている。

 してみると、このたびの「花見の会」をめぐる一連の経緯は、現政権の体質を露見させた意味で、結果として、大変に出来の良い試金石であった以上に、われら日本人に自分たちの国民性の弱点を思い知らせる絶好の教訓話であったのかもしれない。

 問題発覚に至るまで、招待客の選定基準が恣意的である点を指摘したり反省したりした関係者が、一人として見当たらなかったのもさることながら、安倍首相をはじめとする自民党の主だったメンバーが、この点が問題であるとすら認識していなかったことも実に興味深い。

 つまり
 「招待客をオレたちの胸三寸で選ぶことのどこが不正だというのか」

 というのが、彼らの正直な胸の内であったわけだ。

 もう少し噛み砕いて言えば、現政権の中枢を占めている彼らは
 「だって、政府主催の宴会なんだから、その招待客を政府の重鎮でもある自分たちが選んでいけないという法があるのか?」

 と、おそろしくも無邪気に、そう考えていたようなのだ。

 なんというのか、こういう雑なところがないとあの党の議員はつとまらないのかもしれない。というよりも、自民党政治の真骨頂は、権益と責任の区別をあえて曖昧にしておくところにあるのだろう。

彼らは、しばしば責任という言葉を口にするものの、実のところ、
 「責任なんていうのは、しくじった権力者を別の権力者が追い落とす時に使う棍棒に過ぎないのであって、現実に権力を持っている人間はそんな言葉は使わない」

 という程度にしか考えていない。というよりも、彼らにとって「責任」という言葉は、権力を持っていない人間が権力を語る時の皮肉な用法以上の言葉ではないのだろう。

 この話題に関しての二階幹事長の反応は、政権の本音を見事に代弁している点で貴重だ。

 「議員が選挙区の皆さんに配慮するのは当然だ」

 と、二階さんは言っている。

 さらに、党の議員に割り当てられていたと言われる招待「枠」の存在についても、
 「それはあったって別にいいんじゃないですか。特別問題になることがありますか」

 と、逆に記者団を問い詰めている。

 なんと堂々たる正面突破の居直りではないか。

 記者諸君が黙ってしまったようなので、私が代わりにお答えしておく。

 議員が選挙区の皆さんに配慮するのは当然なのだとして、その「配慮」は、政策の実現や、議員としての政治活動を通して報いられるべきものだ。

 仮に政治家が選挙区の住民に分かち与える「配慮」が、物理的な金品であった場合には、議員個人が公職選挙法で告発されることになる。あるいは、自腹の金品ではなくて、政府主催の宴会への招待状や、その宴会の席で供される飲食や配布される記念品を介して、政治家が選挙区の人間の期待に応えたのだとすると、問題はさらに深刻になる。議員は、行政の私物化を追及されることになるはずだ。

 冒頭で、この話題が、せいぜい1週間しかもたないだろうという見込みをお知らせしたのだが、正直なところを申し上げるに、私自身、そこまで早々と絶望しているわけではない。

 ただ、これほどまでにあからさまに現政権の体質を明らかにしているこの案件が、本当に1週間程度の小ネタとして忘れ去られるのだとしたら、いよいよこの国の政治は、行くところまで行くしかないのだろうなとは思っている。まあ、来週になれば分かることだが。

 今回の騒動の一連の経緯を振り返ってつくづく感じ入るのは、報道などでしきりに言われている「行政の私物化」という論点もさることながら、なにより、われわれの政府が、「情報」「文書」「記録」「データ」を、アタマから軽視しにかかっている、その「事実」軽視の態度の有害さについてだ。

 歴史を直視せず、それを自分たちにとって都合の良い妄想で代置しようとする態度のことを「歴史修正主義」と言い、そういう人たちのことを「歴史修正主義者」(リビジョニスト)と呼ぶのだそうだが、現政権の中枢には、たった半年前の記録さえ破棄したと言い張り、いま現在目の前で起こっている事実すら認めようとしない人たちが席を占めている。彼らは、議事録を作っていないと言い張り、面会記録さえその日のうちに廃棄したと主張する。そうまでして自分たちの足跡を消そうとする人々を、どうやって信用することができるだろうか。

 時系列に沿って振り返ってみると、菅官房長官は、この「桜を見る会」をめぐる問題が国会答弁の中で取り上げられた当初(11月11日)の段階では、
 「問題ない」

 と明言している。タカをくくっていたのだと思う。

 翌12日の衆院本会議で、招待者の名簿を開示することを求められると、今度は
 「招待者名簿については会の終了をもって使用目的を終えることに加え、これを全て保存すれば、個人情報を含んだ膨大な量の文書を適切に管理する必要が生じることもあり、終了後、遅滞なく廃棄する取り扱いと承知をしてます」

 と、いけ図々しくも例によって型通りに「廃棄」した旨の答弁を繰り返している。

 

この段階に至ってなお、正面突破で知らぬ存ぜぬを押し通せると考えていた長官の自信は、おそらく森友問題に関する財務省の文書や、加計問題で萩生田文科相(当時は官房副長官)の名前が出たと言われている文科省内の文書について、
 「廃棄した」
 「分からない」

 の一点張りで、逃げ切った経験から導き出されたものなのだろう。

 しかしながら、1万人以上の招待者がいて、映像やら写真やらが無数にインターネット上にアップされているイベントの実態は、党本部がどんなに頑張ってももみ消せるものではない。1万人の生きている証言者の口を封じることは、おそらく、北朝鮮の政府にとってさえ簡単なことではないはずだ。

 そんなわけで、菅官房長官は、13日になると、恥も外聞もなく前言を翻して、大あわてで来年の「桜を見る会」を中止する旨を発表する 事態に追い込まれる。

 菅官房長官、あるいは安倍首相が「桜を見る会」の中止を決断した理由は、問題の深刻さを理解したからというよりは、何百人何千人の生き証人をかかえているこの案件について、口封じや証拠隠滅が不可能である旨をいよいよ本格的に悟ったからなのだと思う。

 今回の中止の発表について、いくつかのメディアが
 「電光石火」
 「素早い決断」

 という言葉を使ってその決断の速さを評価しているが、私は必ずしもそう思っていない。

  検索してみると、赤旗の日曜版がこの問題をはじめて記事にしたのは、10月13日だ。

 とすると、この時点から数えて、官邸が「桜を見る会」中止の決断に至るまでには、約1カ月以上の時日を要したことになる。

 遅すぎる。

 でもまあ、彼らがタカをくくっている通りなのだとしたら、だらだらと様子見をしていた彼らの判断は、結局のところ、正しかったということになる。

 彼らが正しいのかもしれない。

 ということは、われら国民がまるごと間違っているわけだ。

 いずれにせよ、あと1週間程度で答えが出る話ではある。

 あんまり見たくないわけだが。

(文・イラスト/小田嶋 隆)

 

 

安倍政権の驕りの象徴の様な今回の「桜を見る会」の騒動は果たして官邸の思惑通り来週位で消え去る案件だろうか?空きっぽい日本人は通常であれば自然と忘れていくかもしれないが、この大災害真っただ中での権力者たちの驕りと狂宴の乱舞は政治の腐敗を見事に象徴した報道であり全国民の怒りを助長するような案件である。それが証拠にはよっぽど都合が悪い事があるのか電光石火で来年の「桜を見る会」は中止されたのだ。